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高田瞽女の暮らしと地域の絆

親子二代に渡って高田瞽女を研究に関わる市川信夫先生による特別寄稿です。素敵な色紙もいただきました。

市川信夫先生からいただいた色紙

>>>市川信夫先生のプロフィールはこちら

■盲女だけの暮らし

瞽女は盲目の女性集団です。江戸時代から昭和の初期まで高田の街に17軒から19軒の瞽女の家(瞽女屋敷)があって目の不自由な女性だけで生活していました。併し地域に瞽女を支え、共に生きる場が無くては瞽女の暮らしは成り立ちません。私たちの先人が地域の中でどのように瞽女たちを受け入れて来たのかについて、今日はお話ししたいと思います。

新潟の高田に住んでいた高田瞽女は、長岡瞽女などと比べても特別な形をしておりまして、自分たちの家があり、瞽女だけで生活しているところに特徴があります。瞽女たちは自分たちで家事を分担し、年間の大半は旅に出て歌って歩きますが、仲間に「手引き」という人がいました。少しだけ見える弱視の人や、視力は正常でも幼い頃に親を失い、孤児になった女の子を貰って手引きとしました。
この手引きが、家事や徒歩で村から村を移動する瞽女の旅の先導をして瞽女たちの生活を助けていたのです。弟子入りして15年が経つと、親方の資格が与えられます。しかし家が無ければ親方にはなれません。高田瞽女では、親方のことをやもち(家持)といって、先代の親方が亡くなると次の資格のある者が引き継ぎました。瞽女には厳しい戒律があって、男女の交わりは禁止されており、結婚もできません。

■耳承口伝での瞽女唄の記憶と伝承

瞽女は400年以上も伝統のある瞽女唄や三味線を耳で覚えて何度も何度も稽古します。7歳で入門した杉本キクイはその日から

いとし殿サはチヂミのカスリ
オラを子持ちにしておきなすがら
あのやシラジにだまされまする
深く想えば恨事でござる

などという唄を覚えさせられます。「こんな唄いやだ」と言えば、「唄を覚えない者には瞽女にしておかんない」と叱られました。記憶・保存・再生が、文字など記録の方法が一切ない瞽女の宿命でした。習う弟子も教える親方も目が見えない三味線の稽古は、幼い弟子に親方が背後からかぶさるようにして、糸を押さえる弟子の指に指を重ね、バチを持つ手に手を重ねて教えました。最初の練習曲は、「オカザキジョロシュハ ヨイ ジョロシュ」でした。
キクイは高田瞽女随一の歌い手と言われ、一段30分かかる祭文松坂を50段も記憶して国の無形文化財になりました。

■瞽女の旅

瞽女は1年に300日は、高田近郊の農村や信州の佐久地方まで旅をしました。昔から親類付き合いをしている親方同士が組みを作り、5~6人で村々を回りました。瞽女の村とは、現在の大学単位ほどの2、30戸ほどの村落を指します。その村の地主など、有力者が瞽女宿をやっているんですね。瞽女の旅は毎年行く方面も時期も決まっています。瞽女宿では、そろそろ瞽女の来る頃、布団を干したりして準備をします。暖かい布団や風呂、心づくしの食事、気兼ねなく過ごせる部屋などが用意されます。もちろん、皆無料です。瞽女宿の人だけでなく、村の人も手伝いにきます。村中で瞽女を暖かく迎えてくれるんです。高田瞽女の巡業する村々ではこうした瞽女宿がのべ千件以上あったと言われます。

夕方、瞽女たちは瞽女宿に着いたら、荷物を置いて一軒一軒、門付け唄を歌って回ります。家では一人茶碗一杯分のお米を人数分くれます。瞽女の集めた米は村の大勢の人の働く手が加わった米だから、「百人米」と尊ばれ、また瞽女は目が不自由な代わりに神様から霊力をもらっている、その米を子どもに食べさせると、利口になると信じられていました。瞽女は旅立つ前に集めた米を瞽女宿に売り、村人が買い戻して子どもに食べさせました。

■瞽女宿での演奏会

門付けが終わって風呂に入り、夕飯を頂いている頃から三々五々、老人から子どもまで村中の人が集まってきます。瞽女の演奏会は年に一度の人々が楽しみにしている賑わいでした。瞽女は髪を結い、荷物の中から舞台用の晴れ着を出して着替えます。お化粧もします。三人そろってお座敷へ出ると、割るような拍手です。三味線が鳴って、先ずは表芸の段物を語ります。葛の葉子別れの段。山椒大夫の船別れの段などが淡々と語られます。松前心中などの口説きもあって、最後は民謡や流行り歌で陽気に閉めてお開きになります。お祝儀のおひねりもあって、老人や女子どもが引き揚げると、あとに男どもが残って酒盛りが始まります。瞽女たちは今度は芸者変わりに歌ったりふざけたりして酒宴を盛り立てます。泥田をはい回って田の草取りをする妻の真っ黒い顔に見慣れた男たちには丸髷を結って化粧した瞽女たちは天女に見えたと言います。

■瞽女の臨終―旅先で死んだ赤倉カツ

映画では親方だった杉本キクイさんのその親方のお話しです。
杉本家の初代親方マセは江戸時代の生まれで幼い時に天然痘にかかって片目が潰れ、顔中にあばたが残り、「お前はその顔ではいいとこへ嫁に行かれん。いっそ瞽女になるか」と父親に諭されて丸山という親方の弟子になりました。やがてマセが親方の資格を取ると、実家の向かいに適当な家を求めて親方にしました。二代目のカツは、赤倉温泉の旅館の娘で幼くして失明、やがて母親とも死に別れましたが父親が溺愛していました。親方になったマセの最初の弟子で、キクイが弟子になった時はすでに親方の資格を得ていて、形式上キクイはカツの弟子ということになります。カツは裕福な家で父親にかわいがられて育ったせいか、我がままで自分が中心でなければ気がすまぬ人でしたから、とかく自分をはずしてマセに頼るキクイを快く思わず、旅先で辛く当たることもありました。やがて頼りにしていた実家の父親が亡くなり、すっかり気落ちして次第に生活が乱れるようになりました。カツは男好きのする美人で誘惑に弱く、宴会では浴びるほど大酒を飲んで男にたわむれました。カツは旅が好きで、一生に四人も相手のわからない子を産みました。
 大正9年、3月6日、カツは妙高山麓の雪深い地方へ三人の弟子を連れて旅に出ましたが、スペイン風邪の大流行の時期と重なり、感染して帰らぬ人となりました。このときカツ44歳、キクイ22歳、手引きのキノエ14歳でした。瞽女宿には昼食のための休憩宿もあります。
6日、代村の昼食で座敷に上げてもらい、炬燵に入って弁当を食べていると、キノエが「おや、お姉ちゃん寝てるねえ」と言いました。娘が「悪い風邪ににかかってね、でももう熱も下がったし、瞽女さん来なったから奥へ引っ込むわね」とカツが空いた布団に入ると、「母ちゃん、病人の布団に入ったらうつるよ」とキノエが言ったけれど、カツはウィルスをいっぱい吸い込んですやすやと寝込んでしまいました。夕方、矢代村西野谷で門付けをして「背中が寒い」と言いながら演奏会に出て、その後男衆と遅くまで飲んで騒ぎました。
7日、朝西野谷をいつもの通りに発ち、隣村の霊善寺に向かいましたが、段々咳がひどくなり、その晩宴会が済んだあと、「調子が出ない」と言い出します。
8日、いつものように朝宿を出て岡沢に向かいます。途中菅沼の昼宿で弁当を開いたところから荒れだし吹雪になりました。「今夜はここに泊まって行け」というのを断ると、
若い者を案内につけてくれました。岡沢の宿に入ると、吹雪の中を歩いていたカツは体のシンまで冷えて熱を出し、炬燵に入るなり頭が上がらず、演奏会は若い二人に任せて寝込んでしまいます。
9日、岡沢では瞽女宿のシロエムサの親類のゼンザエモンでも泊まって演奏会をします。さすがにカツは気力なく二人だけで行くように命じました。若い二人は夜明け近くまで歌いました。
10日、朝早くシロエムサから使いが来て、「赤倉のおっかさん、昨夜から下痢が激しく大変だ」と知らせがあり、急いで帰って着替えさせたりして落ち着くと、カツが「キクイは芸が出来る。お前一人だけでもゼンザエモンのお座敷を務めろ」と言います。
11日、キクイ一人で舞台を務めた翌朝、シロエムサからキノエが来て、「昨日からキクイちゃんの名前ばかり呼んでいる」と言います。急いで帰っておかゆを食べさせようとすると「キクイ、オラがいなくなっても商売はしっかりな」と繰り返し言いました。その晩、キクイはカツの横に布団を敷いて寝ました。
12日、朝早く宿の主人が来て「赤倉の親方の顔が尋常じゃないぞ」と若い衆を高田に知らせにやりました。若い衆が出がけにカツの枕元に来て「何か言づけがあるか」と訊くと、「おれみたいな者に誰が迎えにきてくれるか」とかすかに笑ったと言います。昼過ぎ危篤状態になり、「キクイ抱いてエ」と言って、ハツは抱かれて息を引き取りました。
カツが亡くなると宿の主人が村中に知らせを出し、ハツの遺体はどうしようかという話になりました。西野谷から高田までは駅4つ分離れています。遺体を運ぶと言っても、目の見えない2人には何もできない。そうすると、村の男たちがたくさんやってきて、ハツをみんなで担いで高田まで運んだんだそうです。そして、その後をキクイたちがついていく。「おらに目が見えれば、母ちゃん(ハツ)
がどうなっていたのかわかったのに。おらには、ちょっと安心してたところがあった。状況がわかっていれば、どんなことがあってもお医者さんを呼んだのに
な。このときばかりは目が見えることがうらやましかった。」と、後になってキクイさんは大層悔しそうに話しておりました。何かと自分勝手なハツだったけれど、地域の人にとっては大切な瞽女の親方だった。遺体を運ぶなど、こういった関係は一朝一夕でできるつながりではありません。
キクイはいつも「人様のお陰で生きていける」と言っていました。「私らの歌を聴いて喜んで下さる」と言っていました。「私らの歌を聴いて喜んで下さる。だから稽古に励まねばならん。歌を忘れてはならん」芸を磨いて村々を巡る瞽女は誇りを持っていました。ほどこしを受けるのではなく、喜んでもらって瞽女宿などの世話を受ける。こうした共生関係によって瞽女を暖かく迎えるコミュニティが存在したことを福祉の原点として忘れてはならないと思います。

■映画「瞽女さんの唄が聞こえる」
素晴らしい映画が出来ました。映像作家の伊東喜雄さんは、1965年高田瞽女が日本青年館で行われた文科省芸術祭民俗芸能大会に初めて上京、出演して衝撃的なデューをして以来、高田に瞽女の古い伝統と盲女たちの昔ながらの暮らしを見ようと押しかける瞽女ブームの中に来て、瞽女の生き方に深く心を奪われ、1971年に16ミリ映画に記録しました。その後さまざまな遍歴があってフィルムは伊東さんの手元で未現像のまま眠り続けていましたが、フィルムの存在を知った瞽女研究者や高田の瞽女文化の会の要請でついに40年後の2008年に完成され、公開されました。心配されていたフィルムの劣化などもなく、生前の元気だった三人の姿がスクリーンを通して生き生きと伝わってきて、観ていて懐かしさのあまり目頭が熱くなりました。食事や掃除、洗濯などの記録、ご飯粒を拾って食べるなど珍しい場面が収録されているのは、この作品の他にありません。この映画を観て研究者の講演を聞き話し合おうという企画が、瞽女プロジェクトと門仲天井ホールでの共催で2010年4月から隔月6回行われ、多くの人に鑑賞してもらいました。昭和初期の江戸川べりで瞽女が三味線を弾いている写真があります。東京での瞽女復活という想いがします。高田瞽女の地元の人間として、この企画に携わった方々に敬意と感謝を表します。

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