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第六回レポート「瞽女と地域コミュニュティのいま」

2011年6月4日

ごぜプロジェクト最終回のレポートは、東大で記憶やメディア史について研究している阿部さんにお願いしました。

記憶術。私が瞽女さんと聞いてすぐに思い起こしたことは、目の見えない瞽女さんたちが、どのようにして数百をも超える唄を覚えられたのかということでした。印刷技術はじめ、多様なメディアを介して記憶の保存ができるようになった今では、脳にだけ頼って記憶するということになじみがなくなってきていることも事実です。しかし、今また脳内の記憶とは異なる形で、記憶術は地域に必要とされつつあります。

“瞽女さんたちを、今度は私たちがどのように「記憶」し継承していくか。”

「もんてん瞽女プロジェクト」全体を見渡すと、「無縁社会」という名ばかりが横行している今日を再考するための記憶術のかけらがそこここに見られます。
今回は、そんな「もんてん瞽女プロジェクト」の中でもとりわけ地域の記憶に焦点を当てた最終回、「瞽女と地域コミュニティのいま」についてレポートします。

冬の空気が少し緩んだ2月の日曜日の昼下がり。
最終回ということもあってか、開場15分前から大勢の人が集まり始め、明らかに席が足りないという事態に。スクリーンの前に座布団席が用意するなど20席
ほど増席し、会が始まる前から瞽女さんへの注目度の高さがうかがわれます。今回は、新潟県高田地域(現・上越市)からたくさんの方が駆けつけてくださり、
会場内も高田の熱気であふれていました。

今回のゲストは、瞽女研究家であり、「高田瞽女の文化を保存・発信する会」の代表でもある市川信夫さんと瞽女文化を通じて高田の町おこしについて話してくださる小川善司さん。このほか、御歳108歳という迎えられる新潟県赤倉出身の後藤はつのさん、瞽女の絵を描き残した斎藤真一さんの絵のコレクターである池田敏章さんも、北海道から駆けつけてくださいました。会場内には高田の名産品であるお菓子やお米、お酒がずらりと並び、高田の町ごと門天にやってきたかのような雰囲気の中、「瞽女さんの唄が聞こえる」上映ののち、現在、日本で一番瞽女さんについてご存知だと言っても過言ではない、瞽女研究家の市川信夫さんから瞽女さんたちの生活についてお話をいただきました。

詳しくは、市川信夫先生からの瞽女さんについての寄稿文「高田瞽女の暮らしと地域の絆」をご覧ください

■第3部

市川さんから浄瑠璃のような瞽女さんたちの当時の暮らしぶり、旅の様子を語りで伺ったあと、司会の齋藤弘美さんから高田瞽女を保存する・発信する会の小川善司さんに質問をする形で、高田の町おこしについて話を伺いました。

Q「映画が町おこしのきっかけになったのですか?」
A「この映画を見て、なるほどなと思ったんです。私はうっかり配達先を間違ってキクイさんに会ったことがあるのですが、瞽女さんは高田の町の中では演奏をやら
ないので、実は高田に住む人には理解が少ないのですね。彼女たちの供養をやるときに会えるという感じです。ですから、映画は高田の人たちにとっては「発
見」であった。雪の高田に住み続けて、「同じ住むなら自分の町をいいな」と思えるようなことが欲しいとずっと思っていました。そこで、この映画に出会った
んです。例えば、斎藤真一さんは絵を通して、15年も瞽女や高田を描き続けてくれたんだなということなど、町の魅力はよそから来た人から言われて気づくものなのです。」

Q「今日は会場で「瞽女マップ」が配られていますね。ここにも、斎藤真一さんの絵があり、齊藤さんの絵には毎回3人の女の人が出てきますね。その絵が使われていたりして、瞽女の町をわかりやすく伝えています。高田の方々は、どのように「瞽女街」をつくっていこうとしているのですか。

A「 実は高田の町の中で、古い家を取り壊すという話があがったんですね。その時にこういった古い家を文化として残していきたいと思い、
市に働きかけて市で買ってもらいました。雁木(がんぎ)という雪除けの屋根のついた家で、雁木の出っぱった通りまでがその家の土地なんですね。雁木が通り
をつくり、雁木によって隣近所とつながっているんです。この屋根や通りのつくり方が高田の町の特徴で、どこまでも続くアーケードは異次元の世界につながっ
ていくようにも見えます。私たちは当たり前のように使っていますが、車社会になって町を歩くことも減りましたから、雁木をつくらない人も増えてきました。
そういうこともあってか、昔の建物が懐かしいものとして感じられるようになり、市をあげての保存活動となったわけです。昭和10年に建てられた町屋を甘味処として2日間だけ開くということもしました。キクイさんの家も同じような感じでした。家の中に渡り廊下があって。市もこれらの伝統ある家の保存に補助金出してくれるようになりまして、明治時代に建築された「旧小麦屋」を再生・活用した「町屋交流館高田小町」や100年以上残る日本最古の映画館として「まちなか映画館再生」という動きも始まっています。「高田小町」で初めてやった展示が、今日会場にもいらっしゃる池田さんにも協力いただいた、「斎藤真一展」でした。ですから、斎藤真一から瞽女に入った人、瞽女から斎藤真一に入った人、どちらもおります。
 最近では、市川さんと高田の町を巡るバスツアーもやっています。1日で瞽女さんゆかりの地を巡るというものなんですが、初回にはなんと70人ほどの方がご参加下さいました。既にこういったバスツアーを5回やっております。実際に瞽女さんたちが住んだその場所を巡りながら、自分の頭の中で瞽女さんの生活を思い描きながら歩く、というのが面白いのだと思います。」

Q「映画を見たみなさんの反応はどうでしたか?市川先生にも伺ってみましょうか。」

A 市川「昭和41年に日本青年団の文部省主催の会で、民族芸能として瞽女をやったんです。昭和41年
というと、古いものではなくより新しいものを求める時代ですから、大層驚かれました。まだこういう人たちや地域のつながりが、日本に継続して生きているん
だという驚きです。その時の演奏では、三味線の弦が切れてしまったんですが、瞽女たちはけして唄を絶やしませんでした。ある新聞記者がそのことに驚いて彼
女たちに質問すると、彼女たちは朝から浜で宴会やり、喉がかすれるほど唄うなどということはざらで、その分鍛えられていますから、三味線が弦が切れること
なんてどうってことないと答えたんだそうです。その頃から高田の人も高田を、瞽女を見直すようになりました。瞽女の文化を止めるわけにはいかんと。
  映画に関して言うと、やはり実際にキクイさんたちが動いている映画は珍しかったですからね。私からは伊東監督に、「お前が年をとるのは構わないから映画だけは撮ってくれ。」と伝えました(笑)。これだけの映像が残されていることが奇跡なんですよ。しかも、彼らの演奏風景だけではなく、ご飯粒を拾って食べる
ところなど当時の生活の跡が残っている。これは瞽女だからというものではないのです。伝統文化とは、もう一度活かそうというときに新しさが生まれるもので
す。どんなに新しいものもその瞬間から古くなっていくことを忘れてはいけません。」

このとき既に会の時間は押し迫ってきていたのですが、会場からの質問に移りました。

Q「先ほどの映画にとても感動したのですが、40年の隔たりをもって作られた映画の編集についてなど聞かせてください。」

A 伊東喜雄監督:
「できれば最初に撮ったフィルムだけで作りたかったのですが、40年も経ってしまうと、今度はその40年を映画のどこかに取り込みたいと思うようになりました。カメラマンは全くのボランティアで付き合ってくれまして、私から少しヒントを出すだけで、1人
で名所を撮ってまわってくれたんです。一般論としての瞽女さんと、取材を通して見えてくる瞽女さん。瞽女さんはどんな家で生まれて、どんな生活をしていた
のかも含めてです。瞽女さんの歩く姿を撮ってくれと私から頼んでも、彼は一向に前から写真を撮ってくれない。(笑)「瞽女さんはこれから消えるのだから、
後ろから撮るしかない」と言って聞かなかったということもありました。そのくらい、カメラマンの方の思いは強かったとも言えます。
この映画のカラーの部分はビデオカメラでして、このとき撮ってくれたのが40年前にカメラマン助手としてやってくれた青年でした。当時大学生だった青年が今は60歳なわけですよ。彼がまだ瞽女のことを覚えていて、「作りましょう」という情熱をもっていてくれた。40年
前のカメラマンは映画ができてすぐに亡くなってしまい、映画に音をつけてくれた私のテレビ時代の友人も、映画ができた途端に亡くなってしまいました。この
ようなことを見るにつけ、時間はやはり過ぎていくのだなと感じます。ですので、踊りの方々など、新たな瞽女が始まっていることを嬉しく思っています。」

また、映画のナレーションを務めた斉藤ともこさんからもエピソードを伺いました。
「瞽女さんのことは前から名前を聞いてはいたのですが、こういう映画は初めてでした。瞽女さんの日常がフィルムに残っていることに本当に驚きました。瞽女さん
が目の見えない人とは思えず、本当に彼女たちの動作は厳粛であり、清らかなんです。彼女たちの存在に自分の声で邪魔をしたくないという思いでいっぱいでし
た。」

最後に、今日の会を正月明けから楽しみにしてくださっていたという、新潟県赤倉ご出身で、今年108歳になる後藤はつのさんにマイクが渡され、ご長男の方に先導いただき、ご自身で拍子打ちながら妙高山の唄を唄い上げられました。はつのさんの唄と瞽女さんたちへの思いのつまった拍手とで大団円のうちに会は幕を閉じました。

■懇親会

「門天瞽女プロジェクト」の最後の最後の締めとして、会の後に懇親会が開かれました。高田の日本酒やどぶろく、ビール、ワインと並び、新潟の食材を使ったモコメシさん の料理がテーブルに所狭しと並びます。
高田の町を見て・聞くだけでなく、舌でも味わってしまおうという試みです。
高田名産のかまぼこ、味噌、岩の原ワインで漬けたたらなどが高田の方も新鮮な食材の使い方に驚いていました。
特に今回のために絞り立てをお持ちいただいた上越酒造の生酒、越後高田「瞽女唄」は絶品のおいしさでした。


参加者のみなさんはそれぞれ料理を楽しみながら、自分と瞽女さんとの関係をも噛みしめているようでした。

懇親会の途中で、司会の斉藤さんの計らいにより会場内全ての人に今回の感想を聞くという時間があったのですが、ここに集まったみなさんの瞽女さんとの関わり方は十人十色で、それぞれが瞽女さんへの思いを抱えながら集まってきていたのだなということがよくわかりました。これもまた、お酒や食がつなぐコミュニティであり、瞽女さんがつなぐ現代のコミュニティでありました。

■「瞽女と地域コミュニティのいま」に参加して

私自身、大学院でアーカイブやメディア史を専攻していることもあり、地域の記憶をどのように紡いでいくかということにとても関心をもっています。家族や地域、死者を含むコミュニティの紐帯としてある墓や、遠い昔の出来事の楔を打つ記念碑・記念館など、私たちは様々な形を通して、個人や地域の記憶に対峙しようとします。墓参という言葉もありますが、私はこれらの記憶装置について考えるときに、それにアクセスするという行為がとても重要だというように考えています。その土地や個人の記憶がそこにあるということ、そしてその記憶に会いに行くという行為こそが、寄る辺ない記憶を強くさせることにつながると考えるか
らです。瞽女さんたちは、伝統芸能を披露することを通して地域とつながり、地域の人々は瞽女さんたちがやってくるのを楽しみに待っていました。瞽女さんたちが歩いて農村間を回り、古くからある人情物語を唄いあげること、それは土地の記憶を継承する行為であると同時に、瞽女さんたちの回るコミュニティをコ
ミュニティたらしめるための、重要かつ神聖な儀礼だったのだと思います。だからこそ、村の男たちは何の躊躇もなく瞽女の親方であったハツさんの遺体を高田まで運んでくれたのだろうと。
そ して、記憶に会いに行くこの行為、冒頭では現代の「記憶術」という言葉を使いましたが、これは「門天瞽女プロジェクト」全体を言い表す言葉でもあります。
私は残念ながら最終回しか参加できませんでしたが、主催者の方々はもちろんのこと、参加者のみなさん一人々々が瞽女さんに何らかの強い思いを抱き、この会
に辿り着くことになりました。ある方は踊りという形で瞽女さんとつながり、ある方はナレーション、映画、絵画、家族や親戚が瞽女さんに興味があってという
つながりもありましたし、高田高校出身で最後の妙高山の唄が実は高田高校の校唄であり、大変懐かしかったという方もいらっしゃいました。そして、食という
つながりもありました。それぞれがそれぞれのつながりを持ちつつ一堂に会すということの贅沢さ、土地の記憶のもつ豊潤さをこれでもかというくらいに味わわせていただけたと思っております。このプロジェクト自体が、瞽女さんのように行脚の記憶術を続ける中で、いくつもの地域を超えたコミュニティを形成していくことを願いつつ、最後の締めとさせていただきます。どうもありがとうございました。

東京大学大学院学際情報学府 文化・人間情報学コース 博士課程
阿部純

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瞽女さんを通して、現代に生きるわたしたちとの接点を考える目的ではじまった「瞽女プロジェクト」。6回連続のプロジェクトとしては一旦終了しますが、今後もご縁が広がるような気がしています。

映画上映とゲストによる「トーク」を主軸に展開していった瞽女プロジェクトをHPで、しかも文字を主体にして残すことについては、アーカイブの形態として、はたして有効なのかというのは繰り返し自問自答してきたことでした。
ただ、この「記録」したことの力はもっと先に生まれるのではないかと思っています。
「いま」がすぐさま「過去」として積み上げられていくHPという空間を通して、もっと先の時間に何かのつながりを生み出す力になれば幸いです。

瞽女プロジェクトHP担当M

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