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第三回レポート/「瞽女と儀礼〜民俗文化を読む〜」

2010年10月14日

もんてんごぜプロジェクト

夏真っ盛りの8/8、第三回目のテーマは瞽女×民俗学でした。
映像を観た後、ゲストの伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館長で民俗学者でもある板橋春夫さんのトークで二部がスタートしました。

■民俗学=way of life

板橋さんはそもそも、タイトルである「民俗とは何か」「儀礼とはなにか」という言葉の説明から始められました。
「民俗」とは、日本の言葉では比較的新しい言葉であり、folk-lore(大衆民衆の学問)という意です。つまり民俗学とは、庶民の暮らしや習わし、習慣に焦点を当てる学問とのこと。そして儀礼はハレに関わるものが多いとのことでした。瞽女さんの場合だと、瞽女さんが年に一度集まる妙音講がそれに当たります。

そして板橋さんの考える民俗学とは「生き方(way of life)を問う」ものであると言います。過去を考えることで未来に生かし、民俗学を通して生き方を問うようなもの。
これはキクイさんが映画の中で言っていた「ひとさまのおかげで生きてきた。だから唄でお返しをする」という言葉につながるものであると板橋さんは仰しゃります。この言葉の根底にある考え方が「way of life」的な生き方であり、その視点でこの映画を観てみようというのが今回の趣向です。

 

板橋春夫氏/もんてんごぜプロジェクト

板橋春夫氏

 

■風景の美しさとは見いだされるもの

板橋さんがまず注目したのは、映像の中で映し出された風景についてでした。映画には、昭和40年に撮られた棚田の風景が度々映ります。それは郷愁を誘い、日本人の原風景のように見えますが、実は少し物足りない「人の手が入らなくなりはじめた末期の棚田の風景」だと板橋さんは指摘します。高齢化もすすみ、残そう、という人はいうけれど、現場のひとたちはどうしたもんかな、思っているのが現実である棚田。風景というのは、いつも外部の人のまなざしによって発見され、見出されるものであり、瞽女さんも似たような存在であるとも。

また、映像の中に「昭和という時代に、瞽女さんはなぜ消えなければならなかったか」という台詞がありましたが、社会的弱者への対応、情報の変化、テレビがはじまり、娯楽が変化していくにつれ、瞽女宿といったシステムがなくなるというのも興味深い現象だと言います。

それから、板橋さんが伊勢崎市の市史編纂室で伊勢崎の歴史を調査していたときに得たお話しもありました。
明治の頃、群馬で耳だれに効く家伝薬(家だけに伝わる民間の薬)で「御夢想」(ごむそう)という薬があり、群馬では有名だったそうです。ある日、そのうわさを伝え聞いた新潟の人間が尋ねてき て「御夢想」をゆずってくれ、と言ったそうです。「御夢想」は群馬では有名ですが、新潟の人が知っていたのは珍しかったので、どこでこのことを知ったのかと問うとその人は「瞽女さんが教えてくれた」と言ったそうです。瞽女さんが情報の伝達者でもあったことがわかるエピソードです。

映像でキクエさんの言葉で、「目あいてる人は不自由だね」という台詞が出てきますが、これらは盲人の学者だった塙保己一、同じく盲人で三味線の名手高橋竹山にも同じ台詞があることも指摘していました。

■瞽女さんの生き方(way of life)

そして板橋さんは瞽女さんのふるまいにも着目します。
映像に映る瞽女さんの食事の作法にも注目します。ごはんを食べ始めるとき、瞽女さんたちは口のところにお茶碗を持っていき、ごはんをこぼさないように食べています。

これは現在ではあまり行儀がよくないと考えられている食べ方ですが、ごはんを落とさないように食べる合理的な食べ方でもあります。また、食べ終わったごはんに白湯をいれて飲む、というやり方もありました。これも一見行儀の悪い食べ方だと思われますが、食器を洗う習慣のなかった時代の無駄のない食べ方でもあり、昔はほかの多くの地域でもやられていた食べ方でした。現に、板橋さんが昭和40年代の民俗調査をしたとき、食器を洗うという風習はほとんどなく、食べ終わった食器は箱ぜんに入れてそのままというのが主流だったということです。
たしなみとしての掃除についても言及がありました。目が見えないからこそ家をきれいに掃除し、火事を出さない。ある種、当たり前すぎる当たり前の暮らしを盲人であった瞽女さんたちがやっていることを指摘します。

そして、ある種の神聖化についての言及もありました。

瞽女さんからもらったお米は頭がよくなる、という言い伝えから「瞽女の百人米」という言い伝えにも触れられました。これは、こどもが生まれると近所から33軒、100軒の家からきれをもらって産着にする風習やお百度参や千度参りといった風習など、日本各地で見られる風習のひとつです。この場合の百、千とはたくさんの意識としてとらえられていて、相互扶助の力によって大きな力にする、という考え方が根底にあり、そして米には、たくさんの力がある、という考え方が結びついているのではないかとのことでした。
また、盲人であった瞽女さんが地域社会で大事にされていたのは、古来からの考え方に知的障害や身体障碍者は共同体において富をもたらすものとしてとらえられていた福子(ふくご)という考え方があったのではないか、とのことでした。(福子のほかの例として、仙台で福をもたらすと考えられていた仙台四郎や頭の大きい福助などがあげられます。)瞽女さんの神聖化の別の例として、群馬では、蚕室で瞽女唄を唄うと蚕がたくさんとれるという言い伝えがあり、瞽女が群馬に来ると蚕の部屋で唄ってもらったそうです。また、お産するとき、三味線の切れた弦をほしがる伝承があり、それは「産=蚕=三」につながることから、やはりある種の「福」をもたらすものとして瞽女さんはとらえられていたようです。

最後に瞽女と同じ門付の風習を持つ群馬の春駒が行われる映像を見せてくださいました。

春駒とは、2月に地元の青年が女装して門付けして、家々を回って行く習わしだそうです。女唄う装した男の人が6日間、蚕の種を孵化させましょうという唄を唄い、一日で30軒近く回ります。家ごとに回って福をもたらす、というのは瞽女と共通するものではないでしょうか、というたくさんのヒントを投げかけて板橋さんのお話は終了しました。

■マレビト=訪問者がもたらす祝祭

第三部は板橋さん、伊東監督、司会の斎藤を囲んでの鼎談です。

瞽女プロジェクトはお客さんがとも話し合う機会をもうけたいということを常々考えておりましたので、今回はよりお客さんと話し合うよう、客席と演者の間を狭くして、なるべく丸くなって座を作ります。

もんてんごぜプロジェクト
まず、板橋さんのトークで最後に見せていただいた群馬県の行事の春駒と瞽女さんの門付芸を照らし合わせながら、「訪れるもの」としての2つの芸を見ることからはじめました。

板橋さんの解説によると、春駒とはもともと芸人が大正時代に春先にやって来て、馬のミニチュアを持って蚕がとれる成功譚を唄う門付け芸でした。太鼓を叩く時に使った桑の枝を渡し、それを使って箸にして蚕様がいい糸を出す、とされていたのですが、ある年に、毎年やってきた門付け芸の親娘が来なくなってしまったことがあり、その年に蚕が不作だったそうです。そこで村の男性がその親子に習いに行って伝承を続けた、という経緯があるそうです。このような経緯の村の若い男性にとっても、着物を着て、お化粧をする「女装」ということは、日常生活から解き放たれたような特別な体験でもあるようです。

 

もんてんごぜプロジェクト

伊東監督

 

民俗学では、このようにときどきやってくるものを「マレビト」と呼びます。年に数度来て、なにか特別な空間を作り出す。瞽女さんもまれびとの一種ではないか、という板橋さんは指摘します。
これを受けて、伊東監督も瞽女さんは自分の住処や実家では唄わなかった、という話をされました。だから、当時瞽女さんが住んでいた高田の人々は、瞽女さんの唄を聞いたことがなかったと言います。瞽女さんが訪れることで、村村の日常の空気を変える役割がありますが、彼らは長くいてはいけないとされていました。お祭りなども本来の一番大事な部分は1日で行ってしまう、ということに近いかもしれません。

そして一方で、その一回の訪れを村のひとはとても有り難がり、「年に1度か2度しか来ないのに、兄弟みたいなかんじだ」と言った人もあったそうです。

また、昔の家々には貧しい人に施すためのご飯をとっておいて、家に置いておく、という風習があったことを板橋さんは紹介されました。それは来ても来なくても置いておき、家の前に来たらそれを与えるけれど、家の敷居をまたがせることはなかったそうです。それはある種の差別のように見えるかもしれませんが、福祉のシステムがある種、無言の了解のうちに瞽女が社会のシステムとして機能していたのではないか、それは瞽女さんも同じではなかったのかと言います。

 

もんてんごぜプロジェクト

斎藤弘美

 

そして、板橋さんが群馬県で瞽女さんに関する調査をした際に瞽女さんのことの思い出を語ってもらったとき、瞽女さんが来て楽しかった思い出とともに薄味の味噌汁を「瞽女さんの小便」を呼んでいたことが語られました。これは喉を使うのであまり味の濃いものを飲まない瞽女さんに出していて味噌汁をそう言ったのではないかという推察がありました。ただし、ここには蔑むニュアンスはなかった、という不思議なねじれがあります。
ここに受け入れる側と行く側のギャップみたいなのが見えるのは興味深いことです。

しかし、これはこのほか声がよくなるためにナメクジを食べさせられた(しかし、このナメクジは所謂ナメクジか蝸牛かが不明)という話や、北海道ー新潟間には船便があり、小樽の鰊(にしん)漁で富を成した人々が呼んで北海道にも瞽女さんは来ていたという話、瞽女さんが子供達に昔話をした場所が瞽女の縁側と呼ばれていた話、目黒の碑文谷や、やはり瞽女宿があったという伊東市の話、舞踏家の土方巽が70年代に作った舞踏の曲として瞽女唄を使っていたこと、土方亡き後に婦人と長岡系の小林ハルさんを尋ねたときのエピソード、瞽女唄のレパートリー、名替えの儀式など、お客さんからの意見や質問なども交えながらもあっという間の時間でした。

最後に板橋さんから、年に1度か2度は悲しい気持ちになって、泣くことが大事で、それが個々人の儀礼となっていた、それを瞽女さん訪れて、泣かせる唄を唄うことである種のカタルシスを与え、助けていたのではないか、という指摘がありました。

そして、最後に瞽女さんは社会の周辺の者であったけれど、そこを中心にして考えてみることの大事さ、視点を入れ替えてみることの意味を問つつ、会はお開きに。

彼女たちの暮らし方や生き方をみることで新たな発見をしてみよう、弱者と呼ばれていた瞽女さんの視点から見ると世界は変わって見えるはず、ということを板橋さんが仰ってこの日は終了となりました。

もんてんごぜプロジェクト

板橋さんが専門とされているのは「生と死をめぐる民俗学」だそうです。

これを具体的に言うと、あるおばあさんの話になるそうです。年をとったおばあさんが語った「朝起きて、生きていてよかったと思ったときが幸せだよ」という言葉。それは寝る前ではないことがポイントでもあります。あるいはこれは「生きている」ことを民俗学としてとらえなおす、ということではないでしょうか。わたしたちにとっての瞽女の意味、それを考えてみることが重要であり、そのための場作りとしての瞽女プロジェクトでありたいと思いました。

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