Skip to content

伊東監督インタビュー(1)

2010年4月14日

第1回は多くの方々のご来場いただき、盛況なスタートを切ることができました。
ご来場いただいたみなさま、ありがとうございました。

当日のレポートも近日中にこちらのサイトに掲載いたしますのでいましばらくお待ちください。

さて、「瞽女さんの唄が聞こえる」の監督である伊東喜雄氏に行ったインタビューを今後定期的に掲載して参ります。第一回インタビューは伊東監督と瞽女さんがどのように結びついたかについてです。

●瞽女さんに出会うまで

このドキュメンタリーを撮った明確な理由というのはない、というのが正直な所ではあるんですが、瞽女さんと出会ったきっかけというと僕は1941年生まれで1960年の初めに大学に入ったんです。

当時の大学というのは、学費・学館闘争とか言うものがあって、今では混乱の時代と言われていた時代ですよね。僕はそういうのは横目に見ながら、記録映画をやりたいと考えていた。ただ諸事情があってその道には行かずに、大学の途中でTBSラジオでアルバイトをするようになりました。最初はクイズ番組か何かを作っていたんですが、別の部でラジオドキュメンタリーをやっている人たちがいたので、アルバイトの分際でそっちに変えてくれって頼んで、ラジオドキュメンタリーの仕事をしていました。

当時、ラジオの仕事というのは、今みたいに分業じゃなく、そこで全部を作っていたんです。また、アルバイトと正社員の違いもないような雰囲気で仕事をしていたんですが、やっぱりどれだけ自分が取材して作り上げても、番組として最後に持っていくのは正社員…みたいな状況はあったんですね。今だったら、下請けプロの中に入ってディレクターとしてやっていくという方法もあるのかもしれないけれど、当時はそういう仕組みもなかった。かといって社員になる方法もない。
放送の仕事自体は面白いな、と思いはじめていた一方で、自分の作品というものが作れない状況で将来どうしていくかな、と考えたりしているうちに、ふてくされて辞めちゃったんですね。仕事を。
ただ、覚えてくれている人はいて、何か職分があればいいんだろ、ということで放送作家の仕事やらないか、と言われてそういうこともやるようになりました。字を書くのとか本当は大嫌いだったんですが。

瞽女さんのことを知ったのは、その仕事を辞めるときに仕事仲間で同期ぐらいの友達がちらっと教えてくれたんです。「世の中の片隅で目の見えないおばあさんが3人で生きている」ってことを。当時の僕は仕事も何もなくて、ひとり者で、お金もなかったので、交通費なんかは全部出してくれて高田行ってこいって言われて行ったんですよ。
それが「伊東。お前もふてくされてないでこういう人の行き方を学びなさい」みたいなことを言われたのかなと思ってね。

●高田での出会い

高田に着いた初日、瞽女のことはそのときは何も知らないから、「瞽女さんのことを聞きたい」と当時の高田市だった役所の受付に行きました。そしたら、瞽女の研究家で民俗学者の市川信次先生を紹介してくれたんです。この方は今回のゲストにもいらっしゃる市川信夫さんのお父さんにあたります。
この市川先生という方から聞いた話しががすごく面白かった。しかも市川先生というのは、とてもおっちょこちょいな方で、その日にアサヒグラフかなにかの取材来る予定が入っていたらしく、僕をその記者と勘違いしたんですかね。名前も何にも聞かないで、顔を見るなりいきなり瞽女の話しを始めてくれたんです。昼ぐらいに着いたんですが、夜の10時くらいまでぶっ続けで。
その翌日に瞽女さんのところに行って1日話を聞きました。
そのときに録音した話がとてもよくてね。
録音を持って辞めたTBSラジオに行って「どうだ!」って聞かせたらすごくいいって言ってすぐ番組作ってくれて。

それからですね。瞽女さんとの関係がはじまったのは。
仕事とは関係なく、瞽女さんの話しももっと聞きたいし、歌ももっと知りたいしっていうことで通い始めるようになりました。
当時、僕は仕事はしてないし、お金はないし、何やっていいかわからないから、アルバイトしてお金を貯めては高田に行く、っていう生活をずっと続けていました。
当時の笑い話として、僕のことが取材されて新聞に出たとき、職業もなにもないんで「瞽女愛好家の伊東さん」って肩書きで書かれたくらい。
僕は当時30歳になるかならないかっていう時でした。

(次回につづきます)

Advertisements

Comments are closed.

%d bloggers like this: